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【アラベスク】  第9章 蜜蜂



第3節 gossip [12]




 ようやく秋らしくなってきたのか、背中に寒気を感じて両手で肩を抱いた。
 何か羽織るものでも。
 そう思うものの、立ち上がろうとは思わない。
 部屋は相変わらず広い。
 本当に、瑠駆真ってどんなヤツなの?
 いや、実際この部屋は、瑠駆真の父親の名義になっているはずだ。名前も教えてもらった。片仮名ばかりの羅列する、どこまでが名字なのかもさっぱりわからない名前だったと思う。
 母親は死んだと言っていた。

「ただの事故だよ」

 ひどく冷めた言い草だった。よほど母親が嫌いなのだろうか。
 だが、その嫌いな母親はもうこの世にはおらず、父親はよくはわからないが金には困らないようだ。そして、唐渓という世界で悠々自適に暮らしている。
 瑠駆真は自分とは同じ片親だが、自分とは境遇が違う。自分よりもずっと恵まれ、何の悩みも問題もなく、何不自由なく暮らしている。あれで何か不満でもあると言うのなら、それこそ我侭だと美鶴は思う。美鶴にはそう見える。
 別に羨ましいなんて思わない。
 そう言い聞かせる。
 ただ、どうしてこうも違うのかと、その原因を考えずにはいられない。
 唐渓のバカどものようになりたいとは思わないが、どうしてこうまで違うのか。
 瑠駆真と美鶴の違い。それは金銭的な余裕の差だろう。同じ片親でありながら、一方はこれほどまでに裕福。
 美鶴には母親しか、瑠駆真には父親しかいないという違いはあるが、どちらかが欠けているという点では――――
 美鶴はそこで軽く瞠目する。
 もし自分のそばに居るのが、母親ではなく父親だったとしたならば、そうしたら自分の生活は、もっと違ったものになっていたのだろうか?
 肩を抱く指に力が入る。
 いや、もし父親だったとしても、瑠駆真のような贅沢な生活ができるとは限らない。
 瑠駆真の日常は、美鶴の中ではもはや贅を尽くした豪奢なものとして飾られている。たとえ美鶴の傍に父親が居ても、そのような生活が送れるとは限らない。
 だが、もし父親が、あのバカ母よりももう少し、もう少しでも常識のあるマトモな親だとしたら?
 詩織は美鶴にとって、尊敬に値する存在ではない。昼間の、ケタケタと響く笑い声が耳障りだ。
 小さな頃はわからなかった。むしろ楽しくて明るくて、大好きな母親だった。その母親が貧しさの元凶だと悟ったのは、中学二年の冬だった。
 自分がこんなに貧しくみすぼらしい環境に居なければ、澤村に振られたとて、里奈に裏切られたとて、あれほどまでに嗤われる事はなかったはずだ。里奈に裏切られる事自体、なかったのかもしれない。
 里奈の裏切りが誤解であったかどうかなんて関係ない。あの時美鶴は、母の存在を恨んだ。
 母の明るさに冷めた感情を抱いたのもあの頃から。
 大迫詩織。美鶴の母親。年齢を聞いても「二十歳(はたち)」としか答えないから実年齢はわからないけど、美鶴を産んだのだってきっと十代だろう。
 学校にもマトモに通わず、水商売の不安定な毎日。
 美鶴の父親とは離婚したと聞いた。相手も母と同じように、自分の人生など真剣に考えた事もないくだらない人間だったのかもしれない。お互い無計画にくっついて、飽きたから別れた。そうなのかもしれない。
 でももし、もしも父親が、母とは違って少しでもマトモな人間だったとしたら?
 口に付けたペットボトルがやけに冷たい。いつの間にか乾いていた唇。
 母親のだらしなさに愛想を尽かして逃げ出したのだとしたら? もし父親が私を引き取っていたら?
 父親という存在を意識した事は過去にもある。だが母に聞いても、どこにいるのかわからないと返された。中学時代の美鶴には、探す手立てなどてんで思いつかなかった。別にどうしても会いたいと思ったことはないから、深く追求する事もなかった。
 だが、もし父親に会う事ができたら。
 自宅謹慎に処せられた自分。これまでにも唐渓では、同級生などから理不尽な対応を受けたきた。遡れば中学時代。男子に振られて辱めを受けた。

「あの子のお父様、すごいのよ」

 唐渓の教室で、同級生が時折そのような会話を交わす。親の存在が影響力を持つ校内では、ごく普通の会話。

「本当に素敵なお母様ね」

 その同級生の母親になど、会った事もない。だが囁きあう生徒たちの会話によって、母親はすばらしい存在だと噂される。自分の親がもし、そのような口の端にのぼるような存在だったら、美鶴の身辺ももう少し違ったものになっていたのかもしれない。

 もし自分を引き取るのが母親ではなく父親だったとしたならば――――

「やめようっ!」
 叫んで立ち上がる。







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